私のヨーロッパ32日間一人旅、1970年7月22日出発〜8月22日(昭和45年)
日目 月日 都市名 内 容 宿 泊 通貨
1 7/22(水) 大坂→
アムステルダム
12:00大阪空港発。ハバロフスク4時間滞在。ここでは小のトイレで焦った。つま先立ちしないと届かないのだ。子供用のもひとつぐらいあってもよさそうなのに。ショック!モスクワ1時間滞在。アムステルダム午後11時半ごろ着。Hotel Casa400 Jame Watt Sturaat 75,Amstersam. Tel 020-51171 ホテル 1us$
=360円の時代
2 7/23(木) アムステルダム 絵ハガキを出す。夜ダム広場へ行くと、その光景に驚いた。昼間いた若者のほとんどがSleeping Bag(寝袋)で寝ていたのだ。広場の塔の周りに同心円状になっていた。異様な芋虫の集団のように見えた。ぎっしりなので、200人以上はいたと思う。私もダム広場で寝ていたら、300円(3ギルダー)のペンションを紹介してくれた。ベッドの上に自分のSleeping Bagで寝る。普通の家で青年が経営。食堂は別だが寝るのは男女混合であった。ダム広場から徒歩15分。Y.H.(ユースホステル)は満員。Student Hotelは、徒歩10分であったが、1000円〜1500円であった。 ペンション,3ギルダー(300円) 1ギルダー
=100セント
=100円
3 7/24(金) アムステルダム Rembrandtspleinで、M.A.に会う。M.A.と夜行でロンドンへ。ブリュッセルで早大生に会う。以後は3人で。コインロッカーは少ない。ドーバー海峡は満航、若い男女のみ。すごく揺れた。中で両替。 汽車中泊
4 7/25(土) ロンドン M.A.とロンドン空港までヒッチハイクをするが失敗。ユースホステルに遅れる。別の女の子に会い、以後は4人で行動。 Y.H.泊,6.5シリング(280円)
(ユースホステル)
1ポンド
=20シリング
=864円
5 7/26(日) ロンドン 早大生とディスコに行く。どこへ行っても In the summer time の音楽がかかっていた。Y.H.にはシャワーがあった。2泊ともY.H.の門限切れであった。 Y.H.泊,6.5シリング(280円) 1シリング
=12ペンス
=43円
6 7/27(月) ロンドン キングクロス駅で、西野入さんに会う。夜行でエジンバラに向かう。汽車は机が付いている。寝ずらい、Sleeping Bag(寝袋)で寝る。朝は、コーヒー、パンを持ってくる。食堂車なし。禁煙の赤いラベルを貼ってある座席がある。切符を買うとき、One way(片道) or Retern way(往復) を聞いてくる。 汽車中泊 1ペンス
=3.6円
7 7/28(火) エジンバラ エジンバラ城では、ギリシャ彫刻に出てきそうな、カッコいい男性に会う。彼は「何処の国だと思うか」と聞いてきた。余程自信があるのであろう。フランスであった。このフランス人と3人でエジンバラ城を見学。慶大生と成城の2人の女の子に会う。Y.H.は運転手に聞くと、バスターミナルからバス、11、16番である。朝着いたけど危ない。1時間ぐらい待った。日本人はいなかった。寒かった。ロンドンは夜9時ぐらいまで明るいが、エジンバラは夜10時ぐらいまで明るい。 Y.H.泊。5シリング(215円) 下へ
8 7/29(水) グラスゴー→
ケズヴィック
エジンバラからグラスゴーへ。西野入さんと、またまたプラットフォームで出会う。ケズヴィックのユースホステルは満員であった。ロビーの椅子の上にSleeping Bag(寝袋)で寝た。予約がいる。bed & breakfastは朝食付きで1ポンド(864円)であった。シャワーはダメであった。汽車が少ないので、ホームで友人に会う。小雨で、ビニールのカッパが役に立った。 bed & breakfast
(民宿)(864円)
9 7/30(木) マンチェスター→
ロンドン
ケズヴィックからマンチェスターをへて、ロンドンへ。ここから夜行でパリへ。ロンドンからパリの切符売り場が分かりにくかった。 汽車中泊
10 7/31(金) パリ パリへ着く。サン・ラザール駅、朝からワイン立ち飲み。ユースホステルを2時間もかかってやっと探したが、既に移転していた。ノートルダム寺院の横の公園で野宿。カメラはシュラフの中へ。朝と夜はコインロッカーのお世話になった。つまり夜はリュックをロッカーに入れ、Sleeping Bagを担いで公園へ。地下鉄の終電は午前1時ごろ。 野宿
11 8/1(土) パリ 朝7時半ごろ、公園清掃人(?)に叩き起こされる。日本人に会い、セーヌ川のほとりでみんな寝ている情報を得る。今夜からセーヌ川のほとりで野宿することにする。夜Sleeping Bagを担いで行った。千人以上はいたと思う。すると仕切っているリーダーが近くに来た。シェルブールから来たという大きなフランス人であった。30人ほどのグループのところまで連れて行ってくれた。そしてこのグループに入れと指示された。隣にドイツから来た女の子がいたので、SEVEN STAR のタバコを渡すと、非常に喜んだ。そして、I'm from Japan,と日本から来たと紹介すると、歓声があがった。日本人は私だけであった。私が、何か言うと次から次へと様々な言語に通訳された。英語は共通言語ではないこともわかった。私の知らない国だらけの感じがした。地球上のあらゆる場所から集まっていた。パリという都市はさすがにすごい所だなあとも思った。何しろ世界中の若者が、お金が無くてもパリを目指して集まって来るのだから。ぼくの隣は女の子が寝た。夜1時〜2時ごろポリスがチェックに着た。毎晩との事であった。 野宿
12 8/2(日) パリ モンマルトルに行く。夜のモンマルトルは世界の若者でいっぱいであった。踊ったりして、自分の国の自慢をするのである。二人の若者のスペインギターに感動した。スペインは行く予定ではなかったが、急きょ行きたくなった。パリの次はマドリッドに決めた。セーヌ川のほとりで野宿。朝4時ごろポリスに、私たちのグループ30人余り全員が起こされ、僕とドイツの青年と二人で、ノートルダム寺院の中の芝生で寝る。ドイツの彼はもう1ヵ月以上パリで野宿。 野宿
13 8/3(月) パリ 朝7時ごろ、ノートルダム寺院の僧に起こされ、ポリスを呼んでくると叫んだので、ドイツの青年と二人で、塀を乗り越えて逃げた。ベルサイユ宮殿を見物。ベルサイユ、地下鉄にも同名がある。ルーブル美術館は日曜日は只。metro(地下鉄)は切符を切ると、いらない。2等と1等。シャワーは4〜5フラン(300〜375円)、北駅の近くのレストランにあった。別に浴びたくないが,1週間シャワーを浴びてないので浴びた。夜行でマドリッドへ。そこで、Pascalc Maison(パリジェンヌ)に会う。彼女は2週間ほどマドリッドにいる彼の所へ遊びに行くとのこと。 汽車中泊 1フラン
=100サンチーム
=75円
14 8/4(火) マドリッド マドリッドに着く。Pascalc Maisonは、ホームで彼を見つけると、すかさず彼の胸の中に跳びこんだ。この野郎と思った。バレンシアから来た化学を専攻する大学生と一日中町を見学する。郵便局でハガキを書く。日本語を興味深く見ていて、熱という漢字を指差してクックッと笑った。Y.H.は駅から約1時間。地下鉄はわかりにくかった。スペイン語は分からないので、Y.H.へはオランダの学生の後をついて行ったし帰りも叔父さんの後を着いて行った。美味しいものを食べようとすると、チキンになる。夕食は早い。時間がくると一斉にスタート。朝はハエが多い。 Y.H.泊。30ペセタ(154円) 1ペセタ
=100センチモ
=約5.14円
15 8/5(水) マドリッド 朝の9時半にInformationで彼と待ち合わせをしていたが、僕が30分遅れて、会えなかった。夜行でパリへ。 汽車中泊
16 8/6(木) パリ パリへ着き、モンマルトルへ行く。夜行でハンブルグへ行く。汽車の中では、フランスのアベックと同じ部屋。 汽車中泊
17 8/7(金) ハンブルグ ハンブルグ。Y.H.の中に日本人がいた。U-burn に乗るのにうまくいけば只でもいけそう。日本人が多い。みんな食事だけで、近くで野宿。食事は、小さいコッペパンにバターを塗るぐらい。世界一周しているライトバンにも会った。 Y.H.泊。2マルク(196円)
18 8/8(土) コペンハーゲン アイセル湖。ストックホルムへ行く汽車を間違える。S-tog、ここも、只で乗れそうであるが、車掌が来た。ハンブルグからコペンハーゲンは汽車を積んだままフェリーに乗せた。夜行でストックホルムへ行く予定だったが、コペンハーゲンで留学している慶大生に会う。夜は僕のおごりでチボリ公園へ行く。慶大生の下宿に泊めてもらう。 留学生宅泊
19 8/9(日) コペンハーゲン 朝、只で人魚まで行き、見物。夜行でストックホルムへ。船に汽車を入れるのに、1時間近くかかった。車中で手帳を忘れる。また、車中で、コペンハーゲンの金髪の女の子と結婚した日本人と会う。千葉工業大学中退だが、4年間コペンハーゲンでコックの免状を取り、横浜で働いている。月、14.5万円とのこと。 汽車中泊 1デンマーククローネ
=100オーレ
=48円
20 8/10(月) ストックホルム 九州大学で生物学を研究している教授と町を歩く。サンドイッチが300円ぐらい。ストックホルムのY.Hは綺麗な帆船で有名だが、日本人お断りであった。当時、スウェーデンはフリーセックスの国として日本人に知られていたから、間違った行動をした日本人がいたのかも知れない。雨も降って、スカンセン公園での野宿が出来ない。ホテルは高い。宿を探していると、青山学院大学の学生に会う。彼はここでバイトをしていて、2年間休学するそうだ。彼のペンションに只で泊めてもらう。 ペンションに只で 1スウエディッシュクローネ
=100オーレ
=100円
21 8/11(火) ストックホルム 夜行で、ハイデルベルクへ向かう。車中でデトロイトの17歳の女の子と会う。日本の学生と3人で、歌を歌ったりして、楽しく過ごした。彼女には7人のボーイフレンドがいるとか。 汽車中泊
22 8/12(水) ハノーバー→
フランクフルト→
ハイデルベルク
ハノーバーからフランクフルトまでTEEに乗る。ハノーバーからフランクフルトまでヒッチハイクをしている青年とフランクフルトのY.Hで会う約束をした。しかし、彼とはフランクフルトのコインロッカーで会った。僕は町を見てからハイデルベルクへ行くことにした。ハイデルベルクでは、デンマークの青年とディスコに行った。ここでも In the summer time の音楽がかかっていた。夜行でジュネーブへ。降りる駅を間違える。バーゼルへ2時頃着き、朝7時頃まで駅で野宿。 野宿 1マルク
=100ペニッヒ
=98円
23 8/13(木) ジュネーブ 朝ジュネーブへ着く。午後0時にJTBで3人で会う事になっていたが、表と裏を間違え誰とも会えなかった。その代わり獨協大学の学生と会い、彼のペンションへ行く。レマン湖へ彼と泳ぎに行った。学生食堂で彼と安い飯を食い、学生の寮でやっているディスコへ行く。久しぶりにペンションでシャワーを浴びる。 ペンション,5スイスフラン(415円)
24 8/14(金) グリンデルワルト ユングフラウ・ヨッホに行くことに決め、ジュネーブからベルンまで、TEEに乗り、グリンデルワルトへ行く。登山電車の中で、立命館と松陰の英語を教えている女の人に色々教えてもらった。大学の先生の発音の悪いこと。東工大の人と会い、色々経済の事などを話し合った。夜、Y.H.で、M.Aと会う。Y.H.は満室。仕方なく、1階の土の上にSleeping Bagで寝る。木の枠があるだけである。2階から出入り。登山電車の切符は他国で買うと割引。また早朝2便までは割引。 Y.H.泊,3スイスフラン.(249円) 1スイスフラン
=100サンチーム
=83円
25 8/15(土) ユングフラウ→
チューリッヒ
朝8時11分の電車でユングフラウ・ヨッホへ登った。日大(医学)の人と、アメリカの家族とイタリアの夫婦に出会う。チューリッヒから、夜行でミラノへ向かう。 汽車中泊
26 8/16(日) ミラノ→
ベニス
ミラノへ着く。汽車はジェノバ行きで間違えた。昼過ぎベニスへ向かう。夜行でローマへ。夜、フィレンツェの学生と会うが、彼は英語を話せなかった。 汽車中泊
27 8/17(月) ローマ ローマへ着く。4人でペンションを借りる。ペンションは普通のアパートの部屋。1時ごろI.T.Aの連中と会う。 ペンション.500リラ(290円)朝食付き
28 8/18(火) ローマ 朝5時起床。7時からナポリへ行く。ナポリ→ポンペイ→ソレント→カプリ→ナポリ→ローマ。帰ったのが夜11時半、鍵はしまっていた。帰りの船で、スペインのSusana Oriel Latorre に出会う。ナポリの港から駅まで、彼女達4人の車、フィアット600に乗せてもらったが、道がよくわからなかった。リアス式海岸で有名なラコルーニャから来ていた。運転は妹。姉のSusanaとは、年齢も同じでよく気が合った。日本に行きたいとも言っていたが、残念なことに、医学生であった。その上、住所を書いた手帳を紛失してしまった。 ペンション500リラ(290円) 1リラ
=約0.58円
29 8/19(水) ローマ 夕方5時までにチェックイン。6時45分まで、ローマの青年二人にフォロロマーノを案内してもらう。日本が台風接近のため、2日遅れる。この台風で、今治市(愛媛県)の防波堤がほぼ破壊された。 ホテル 上へ
30 8/20(木) ローマ ローマ、トレビの泉を見る。ここで、西野入さんと長谷川君に会う。夜、ワインをみんなで飲む。 ホテル
31 8/21(金) ローマ発 朝、カラカラ浴場跡に行く。3時にチェックイン。7時半ローマ発 (1)汽車中・10泊(2)Y.H.(ユースホステル)・6泊
(3)ペンション・5泊(4)野宿・4泊(5)ホテル・3泊
(6)bed & breakfast・1泊(7)留学生宅・1泊
(8)機中・1泊
機中泊 昭45/8/21
台風10号,
今治市直撃、今治港壊滅。
下記参照
32 8/22(土) 大坂着 夜、10時ごろ大阪空港着。 32日間の宿泊費の合計は3,533円(ホテル代3泊は除く)。ただしY.H.は日本と違って、食事はだいたい付いてない。自炊か外食。Sleeping Bag(寝袋)で寝る。
(参考)鉄道はユーレイルパス。現地では買えない。日本で5万円ぐらいで購入。1等の鉄道乗り放題。夜行列車に乗れば翌朝は隣の国。シートを倒してベッドにするが、よく寝られたと思う。宿泊費が助かる。駅に着くと、まずはInformation へ行く。その町の観光地図をもらう。無料である。両替所へ行く。使わなくなった紙幣は両替してくれるが、コインはしてくれないので注意しよう。旅行をするだけなら、中学1年生程度の英語で十分。ヒヤリングも一週間もすれば慣れてくる。ただしフランスと、スペインはあまり英語が通じなかった。現在はスマホの通訳やナビがある。現代の若い人がうらやましい。
昭和45年8月21日台風10号(1970年)
昭和45年8月21日台風10号は今治市を直撃し、今治港を完全に壊滅しました。
被害は、東防波堤長さ400m、高さ1.5mにわたって決壊。今治港は全壊。市内の床上床下浸水4000戸。
交通、電話、電気は止まり麻痺状態となり、50億円以上の被害と想定された。港の機能は、凡そ80日前後で復活。
「100年に一度」と言われるような大災害に対処し敏速な決断と実行で、今治港は最も早い復興を成し遂げた。
台風10号、今治を直撃 S45/8/21 (1970年)
海上交通の変遷 (今治港)
渡 海 船
私の台湾旅行
昭和62年12月26日(1987年)〜昭和63年1月6日(12日間)

12月26日(土)、8:46今治港発〜9:53三原港着
10:11三原発(こだま390)〜12:05新大阪着、バスで大阪空港へ(40分)
16:55大阪発(日本アジア航空EG231便)〜18:35台北着
空港でお出迎えを受けて、そのまま基隆へ、(基隆泊)。
ホテルは柯達大飯店(TEL230111-15)

12月27日(日)、野柳、基隆市内(中正公園)見学、(台北泊)(碧瑶大飯店、ホテル)。
今日は一日中親戚の人達(8名)が案内をしてくれた。
昼は三女の義母のレストランで中国料理をご馳走になる。

12月28日(月)、台北市内を張さんとタクシーで市内見学。
13:00台北発バス〜16:30埔里着(埔里泊)

12月29日(火)、九族文化村、日月潭(慈恩塔と玄装殿)タクシー代800元(埔里泊)

12月30日(水)、朝、紙工場を見学。それから、水生昆虫博物館を見学。
世界中の珍しい蝶6000種が集まっているとか(元小学校の校長さん)。
お寺参りをする。夜、埔里の市場を見学する。(埔里泊)

12月31日(木)、9:00埔里発(バス)〜10:30台中着
13:11台中発(汽車)〜15:20高雄着、(高雄泊)
(ホテル代1080+1500+TEL代は3000元程度、天佑大飯店泊)
日本円10万円を両替すると、22000元。
当時(1987年): 1円≒0.22 元、 4.55円≒1元
現在(2018年): 1円≒0.275元、 3.64円≒1元

1月1日(金)、9:00ホテル(天佑大飯店)発(観光バス)猫鼻頭へ、ガランピー〜墾丁公園。
南部見物で紫水晶のネックレスを2000元で買う。(天佑大飯店泊)18:30.

1月2日(土)、10:00高雄〜15:15台北着、(台北泊、名城大飯店泊)

1月3日(日)、国立故宮博物院、陽明山公園、台北新公園、総統府見学(台北泊)
朝、張さんがホテルに見えて、一日中台北を案内してくれた。

1月4日(月)、朝から烏来(ウーライ、タイヤル族)を見学、トロッコに乗る。
お土産に置物とヘビの薬を買う。(台北泊)

1月5日(火)、中正紀念堂、台北市内(中華商場)を見学する。(台北泊)

1月6日(水)、朝、張さんが見送りに来る。8:30台北発〜9:30空港着
11:55台北空港発〜15:20大阪空港着(EG232便)
バスで新大阪へ(40分)、17:19新大阪発(ひかり233)〜19:10三原着
19:28三原港発〜20:28今治港着
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