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西伯方中時代の思い出 part2 | ![]() |
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(1)私はそれまで、東京の新宿の中学校にいました。 愛媛の教員採用の試験を受けることを、校長に話しました。 すると、「来年は丙午年生まれの生徒が入学するので、生徒数がかなり減るようだ。 だから中学校の教師はほとんど採用しないと思う。 小学校の免許証をとって、 小学校の教員の試験を受けるほうがいいかもしれない。」と、言われました。 わたしは、昭和24年、戦後のベビーブーム(備考1)(備考4)に生まれました。 受験生が減るなんてなんてうらやましいと思いました。 この生徒達の中には、丙午(ひのえうま)という運命を背負っている人が、多いと思います。 「丙午(ひのえうま)生まれの女性は気性が激しい」と思われていることです。 これは中国で作られた迷信ですが、日本では、まだ残っているように思います。 江戸時代よりも明治時代のほうが、出生減少率が大きいのです。 これは、どういうことかというと、 「科学文明や教育が発達して、馬鹿馬鹿しさが認識されるようになった。」 のではなく、 「新聞ラジオの文明機器が、発達して、馬鹿馬鹿しい事が、民衆に広く伝わるようになった。」 ということです。 もちろん中国では現在はないと思います。 しかし、丙午が原因で結婚できない ということがあるのなら(ないと思うが)、 こんな差別は許されるはずはないと思います。 (まさか就職差別はないでしょう) (2) 新規採用教員での研修が最初にあったときに、ある教師からこんな質問がありました。 「私は島の学校に赴任するように決まりましたが、 台風や地震が来たときに、島が海に沈むことはないのですか。」 もちろんみんなどっと笑いましたが、 私の心の底では、もしかしたら・・と、ホンの何%かは、それもありかなと思いました。 これが、伯方島に来る前の印象です。 (3) 伯方島に来てから最初の出来事は、大三島橋の開通記念でした。 生徒を橋まで引率して、さあ生徒と一緒に渡ろうとしたら、 「先生方は渡らないでください。」といわれました。 わたしは生徒と同じような気分でした。やはり、前の晩から新しい橋を渡りたかったのです。 ですから私はこの言葉にショックを受けました。 そのときは、もちろん他の大人の集団にまぎれて渡りました。 しかし他の先生方はちゃんと静かに生徒を待っていました。 ああ俺は、本当にこんな「真面目な愛媛の教師」になれるのだろうかと、 思ったのがスタートでした。 (4)伯方島の印象は、やはり自然のすばらしさとゆっくりと流れる時間だろうと思います。 東京の教え子を、大三島橋へ連れて行きましたが、「時間が止まっているようだ」と言っていました。 しかし、これは短所ではなく長所です。都会には絶対ないことです。 都立文京高校にいった教え子H・M(備考2)と大三島で会ったことがありますが、 修学旅行で来たとのことでした。 (5)そしてなんと言っても、感動したのは、フェリーボートでの出来事です。 それは、私は毎週土曜日の午後の決まった便で、今治の実家に帰っていたのですが、 その日は、少し港に着くのが、遅れたのです。 フェリーは、既に白い灯台をすぎて、沖に曲がりかかっていました。 私は、あきらめて一時間後の便にしようと帰ろうとしました。 しかし、その船長さんは再び桟橋にもどってくれたのです。 こんなフェリーは伯方島しかないと思いました。 (6)西伯方中時代の思い出の中で、一番衝撃的な出来事は、君らの一年先輩のK.・S君です。 三段跳びをやっていて、着地したときに、 自分のスパイクで自分の手の小指の先を踏んだのです。 傷口を広げると真っ赤な鮮血が3cmぐらいの高さに吹き上がりました。 こんなところまで動脈があるのだと驚いた私は、 急いで輪ゴムで止血をし、救急車を呼びました。 (7)君たちに関して、私の記憶に残っている事件は、A・H君の事件です。 夜になっても、男女2人の生徒が、家に帰っていないということで、みんなで捜索しました。 真相は今だに闇につつまれたままです。 (8)次に、A・T先生事件です。 日曜日に、男子生徒数人が、 大学を出たばかりの新採の女先生のアパートに、遊びに行ったときの事件です。 話を聞いた私は、急きょN・K君をはじめ関係した男子生徒を、 理科室に呼び、横一列に並べ少し、 ジェラシーを込めて全員処刑しました。覚えていますか。 (9)島に来てはじめた趣味が釣りです。 日曜日、朝早くから熊口港(くまごう)の防波堤で釣りをしたが、さっぱりでした。 昼前に帰り支度を始めたときに5人ほどの生徒に会い、 「先生これからですよ」と言われ、生徒の横で再び始めると、アジの大群に会いました。 たちまちのうちにクーラー一杯になり、初めて近所の人に配りました。 もう汗だくだくで、「釣りは、スポーツだ!」と、実感しました。 さすが、地元の子は、アジの周遊する周期(?)がわかっているのだなあと思ったものです。 しかし、いつも目標はチヌでした。 開山にいくと、「ここで赤土を取ってはいけません」と書かれた看板があります。 ここで、赤土を取ります。 熊口の港に、「ここに赤土を投げてはいけません。」 という看板を目掛けて赤土の団子を投げるわけです。 しかし、一度も釣れませんでした。 ある日、島の反対側にある木浦の港で朝から釣りをしました。 夕方になってやっと1匹タイを始めて釣りました。うれしくて、早速妻に電話をしたものです。 翌日、生徒の前で手のひら大の鯛を釣った自慢話を胸を張ってしました。 すると、生徒に「先生それ、鯛じゃないよ。鯛子ですよ」といわれてしまいました。 がっくり。 (10)部活動では、剣道部の顧問をしました。 一応、夏休みには、教師の研修にも参加しました。 蒸し暑くて、汗だくだくなのに、面が邪魔で汗を拭けなく、 いらいらした記憶しか残っていません。 生徒には申し訳なかったと思います。 経験は勿論なく、生徒と剣道をしても、 叩かれた時の痛みに耐えられませんでした(ちょっとオーバーかな)。 せっかく小学校時代に渡辺喬二先生が強く鍛えてくれたのに、 わたしは、剣道で優勝させることは出来ませんでした。 しかし、ある大会で決勝リーグに残ったときは、 職員室で剣道部の話題で盛り上がりました。 理科の準備室で生徒と将棋を指しているほうが、ずっと楽しかったです。 クラブ活動では、レーティング将棋を教えていましたからね。 (11)運動会の練習を夏休みから、していたのを覚えています。 これぐらい練習をしないと、種目数が少ないということでしょう。 小規模校の運命みたいなものです。 私の近くにある美須賀中学校も西伯方中と同じ1学年2クラスの小規模校ですが、 運動会は午後早くには、終わってしまいます。 (12)O・Kさんが国際結婚しました。おめでとうございます。(備考3) わたしは現在も下手な英語も教えていますが、強い助っ人になっております。 幸せな家庭をぜひ創ってください。 (13)最後に私の小さいころは、みんな貧しくて、何にもありませんでした。 ご飯にしょうゆを、かけて食べることもありました。バターと花カツオがあれば最高。 (それでも友達の昼飯が麦だったのを見て、自分の家は、裕福なんだと思った記憶があります。) しかし、世の中全体に元気がありました。 今は少子高齢化社会に向かっており元気がないように思います。 近くの美須賀中学は、昔は10クラス余りあったと思いますが、 現在はたったの2クラスです。君たちと同じくらいの人数です。 その、西伯方中学校も伯方中学校と、統合され、伯方中学校になったと聞いております。 また、私のいた東京の新宿の戸塚第一中学も隣の西戸山中と合併して 西早稲田中学校になったそうです。 君たちは、今は社会の第一線で働いていることと思います。 今の社会は大変だと思いますが、頑張ってください。 |
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備考1![]() |
(備考1)わたしは、戦後のベビーブーム(昭和24年)に生まれました。 終戦直後の混乱期は知りませんが、まだまだ日本が貧乏だった頃です。 でも ALWAYS(三丁目の夕日)という映画にもある通り、 日本国民全体が明日への希望に充ち溢れていました。 町中には、小さい子供達であふれていました。 (家の中には、今のようなテレビもゲームも何にもないものね. 遊ぶものといえば、石、ビー玉、パッチン、釘、輪ゴム、コマ、探検ぐらいかな) そして、それは、競争・競争の世代でもあります。 私の日吉中学校時代のことです。 受験競争も激しさを増し、 毎月のように受験のための模擬試験がありました。 当時私は、生徒会長をしておりました。 毎日のようにテスト漬けであったので、生徒会本部の生徒で話し合いました。 そして、「日吉中は高校の予備校ではないか」 というタイトルで生徒会新聞を印刷しました。 さあこれから、全校生徒(1650人余りいた)に配ろうとしている時に、校長室に呼ばれました。 案の定、配布禁止でした。 (印刷室の刷り残しのプリントを見て校長にチクッタ先生がいたんだねえ・・・) 中間期末試験の後には、理科室の黒板の下に、 成績上位者は、いつも得点を張り出されました。 (中学1年1学期の最初の中間テストの理科は、浮力の問題でした。 現在は高校でしか扱いません) 高校(今治西)でも、渡り廊下に沿って成績順に氏名と得点が張り出されました。 (もっとも、私は、2度ほど数学満点で張り出されましたので、 それほど抵抗は、ありませんでしたが。) 愛媛新聞でも、高校名や大学名と一緒に合格者の氏名が全員掲載されました。 それが当たり前の時代でした。 高校では、私のクラスは、56人。 教室いっぱいに机が並べられているために、 休み時間になると、急いでノートをしまわなくてはなりません。 急ぐ生徒は、机の上を歩いて廊下に出るからです。 (机がぴったりとくっついているので、横には移動出来なかった。) 受験競争の一番激しかった世代ではないかと思います。 私は、大学は、10近く受験しましたが、すべて倍率は20倍を超えていました。 最高は、35倍(慶大医)でした。 教員採用でも、東京都は中学理科で900人ほど受験して、新宿区は、1人。 (合格して最初の塚本校長との面談があった。 私は、「教師としての心構え」のような事を話してくれると思っていました。 しかし、そうではなく 自分は、満州で理科を教えていたという経験談を懐かしく話してくれました。 私には、中国での教師生活がいかに充実していたかが伝わってきました。 当時どうやら私の妻が台湾出身であるのを知って 私を選んでくれたんだなとピンと感じました。 もし、そうならラッキーでした。 新宿区の教諭候補は3人いました。) 愛媛県では、中学理科で80人余り受験して、合格者はたったの3人でした。 当時は四当五落の時代。 (睡眠時間を5時間もとる受験生は合格できない) みんな本当によく勉強するなあと思いました。 受験生ブルースがヒットしました。 このような、競争の階級社会に反抗するように、学生運動が始まりました。 私のいた、代々木ゼミナール(予備校)でも学費値上げ反対で団交していました。 東大紛争が起こり、私の受験の年、 東大と東京教育大(現在の筑波大)等の入試が中止されました。 こうして東大志望の生徒3万人余りが涙を呑みました。 私の友人Y君(愛光高)は、どうしても東大を諦めきれず、この年は受験を諦め、 翌年に、結局2浪して東大入学を果たしました。 私の友人4人組み(新潟高出身)は、 急きょ、東大受験から、4人共、新潟大医に受験を変えました。 (当然、新潟大医を第一志望にしていた私も、志望校変更をせざるをえませんでした。) 学生時代、アジ演説や 大学の構内ぎっしりと詰まっている立看の内容も難解でよくわからなかった。 しかし、 私もみんなと同じく、学生運動のデモにはよく参加した。 ヘルメットをかぶり、白いマスクもした。 機動隊の薄いところでは、 両手を広げ、道路いっぱいにフランスデモをした。 機動隊が、左右からじわじわと押し寄せてくると、 硬く硬くスクラムを組んだ。 ガンガンと地面を叩き付ける機動隊のジュラルミンの盾に いつ自分の左足がつぶされるのかという恐怖を感じたときが何度もあった。 左足まで数センチしかなくてもジュラルミンの盾は容赦しなかった。 (そうデモには、安全靴が必需品であった) こんなに仲間と運命を共にしたことは、なかったと思う。 みんなと、一体感になれた。 機動隊を前にすると、 すごい大きな権力が目の前に立ち塞がっているのだなと実感できた。 首相官邸の前ではなぜか涙が溢れ、止まらなかった。 ベトナム戦争反対とも大声で叫んだ。 デモの帰りは私の6畳一間の下宿に6〜7人が集まり、 みんな折り重なるように寝た時もあった。 青春の真っ最中であったと思う。 オルグの内容もよくわからなかった。 しかし、これで良かった。 総括という名目で、最初に粛清されていたかもわからないから。 しかし、どういうわけか、女闘士は、みんな輝いていて、 しかも半端じゃなくかわいかった。 受験戦争もなく、「階級もなく、みんな平等な世の中」に変革できないものか、 そんな理想的な社会(原始共産的な社会)を夢みる (映画「キューポラのある街」に出てくる頃の北朝鮮のイメージかな?) 純粋な若者が多かった時代でもあったと思います。 確かにいろんな面で競争競争の世の中ではあったが、 日本経済は、成長していたので、 今のような就職難ではなかった。(H21.1) 仲間は多く今よりは、良かったかもわかりません。 そうわたしは、団塊の世代です。(戻る) |
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備考2 |
(備考2) 教え子H・Mさんは、現在小学校の教師をしています。 当時国語のI・K先生は、独身でした。 私が愛媛に帰った際に、 新規採用の理科教師として赴任して来た男先生と結婚したそうです。 そして、出来た子供を教え子H・Mさんは、教えているそうです。 (教えてもらった先生の子供を教え子が教えている) と言うことは、もし、私が、愛媛の教員採用試験に合格しなかったら、 この子は、この世に存在していなかったということですね。 正に、Back to the future. の世界ですね。 |
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備考3![]() |
(備考3) KAZUE LAYMAN 1030* FORT VALLEY RD FORT VALLEY.VA 22652 USA 日本語に訳すと アメリカ合衆国、郵便番号22652、 バージニア州、 フォートヴァレー市、フォートヴァレー通り、1030*番地 (詳しい住所は、私か(阿部一生Tell:0898231973)、赤瀬尚生君(Tell:0897730430)に聞いてください。) |
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備考4, |