小学時代 (野球部) | ||
〇 小学1年生ごろ・・・家にテレビのあるのは、ナカチュウの家ぐらい。 日曜日の夜はよくみんなでナカチュウの家へ行き「月光仮面」を見た。 〇 小学2年生〜… いつも5〜6人の仲間(ナカチュウ、キンサン、ボカニー、・・・)で ローラースケートで遊んだ。 初めは友人の広い工場の中で練習、 上手になると車の通らない道路へ出た。 〇 小学3年生ごろ・・・学校にはプールはなく、 夏休み中に水泳学校が天保山海水浴場で、1週間ぐらいあった。 最終日に、距離測定。 自分としては、体力の限界までクロール、平泳ぎと横泳ぎで、 浜の端まで泳いだつもりであったが、 たったの54mであった。 5〜6人の仲間で日曜日の日の出を見るために 朝の4〜5時に近見山によく登った。 集まりの合図は「チアキ」、名犬ラッシーのテレビに出てきた合図。 帰りは道なき道の山を降りてきた。 途中に開けた場所があり、イチゴを植えていた。 これが美味しくて次の週も食べに行ったが、地主の人に見つかった。 その後担任の先生にも注意された。 自称模範生の私が、 小学校時代に注意されたのはこの時だけである(と思っている)。 日曜日の朝はいつもの5〜6人でよく陸上競技大会をした。 蒼社川の横の砂場で高跳びや幅跳び。 高跳びは両足で踏み切るとよく跳べた。 が、先生に聞くとダメの返事。 その横で灯油缶に砂を入れ石焼き芋を焼いた。 ある時は犬塚の池で椿の実を取ってきた。 その椿油で自分たち仲間の机の上をピカピカに磨いた。 〇 小学4年生ごろ・・・先生が、紙芝居をしてくれた。 何気なく見ていたが、衝撃的なシーンを見てはっと驚いた。 原爆投下の瞬間であった。 この5〜6人の仲間はいつも一緒で、 休みの日には時々自転車で松山(約55km)まで行った。 みんなで松山の市役所へ行き、只で泊めてくれるお寺を探してもらった。 行きは海岸線(国道196号。道路は舗装されたところであった。)を通るが、 帰りの桜三里(国道11号)はまだ工事中であった。 この仲間は家庭教師をしている大学生に連れられ、 剣山を登り、高知の桂浜ではゴザで包んで寝ながら四国一周をした事もある。 ボーイスカウトの夜間ハイクでは、 国民休暇村や野間(15km)の山中を一周したが、 満月の明かりは予想以上に明るくて懐中電灯がいらなかったのには驚いた。 自然科学教室に入っていたので、 石英や蛍石等の今治地方の岩石は全て集めたと思っている。 ある時今治城の石垣を下から登っていき持っていない石を見つけると、 ワクワクしながら、ハンマーでカンカン叩いた。 すると、今の私の年齢ぐらいのおじさんが凄いけんまくの表情をして怒って来た。 当時の私は何故怒られているのかピンと来なかった。 申し訳ございませんでした。深く反省。 トンボとセミも全て採集した。 ウチワヤンマは非常に敏感で一番難しかった。 竜岡の山奥で採ったカトリトンボはお腹が透けて綺麗だった。 オニヤンマは大きいだけに鈍感で楽に採れた。 笠松山でハルゼミを採った時は、 キンサンがもし逃がしたら死んでもいいから、持たせてという。 渡すとすぐに逃げられた。未だに死んでくれない! 〇 相撲の思い出・・・試合前に選手に選ばれた。 私の日吉小学校は団体戦2勝1敗ぐらいだったが、優勝は出来なかった。 〇 陸上競技の思い出・・・5年生の時、100m走の学校代表に選ばれた。 予選のとき「位置について」の合図があった時には、 心臓の拍動があまりにも凄く(初体験)、 隣の選手にも聞こえているのではないかと心配した。 6年生の時、200m走の学校代表に選ばれた。 予選のとき、スタート直後は2位で、前はNo君(後の美須賀中の生徒会長)、 すぐ後ろはTa君(現在は医者)。 最後はTa君に抜かれて、3位であった。 予選3位までは決勝に出られる。 決勝では、スタート直後は予選と同じ2位であった。 今度はすぐ後ろのTa君には抜かれないように必死で走った。 結果、1位No君 (記録は20秒台で小学生新記録、体格が中学生ぐらい大きかった)、 2位私(記録 30秒4)、3位Ta君であった。 私は短距離走で、小中高通して、 途中で私を追い抜いたのは、予選の時のTa君ぐらいしか記憶にない。 中学3年の運動会のリレーで、 3人をごぼう抜きにした時が、一番気持ちがよかった。 カーブから直線コースに入るときに、 さあ抜きに入るぞと思うとギアがトップに入り、 どんどん加速するのを感じることができたからである。 ですから、リレーでは 前の選手にどんどん抜かれてくれと心で願ったりしたこともある。 私は長距離走は大の苦手である。 高校のマラソン大会では、 スタートでは3位であったが、ゴールはほとんどビリであった。 43km飲まず食わず、かち歩き大会では393位(8時間34分、新宿-青梅) 東京女子体育大学の学生と一緒だったが、 疲れた私は途中民家の庭で1.5時間ほど寝てしまった。 長距離が得意であれば、 市民マラソンやトライアスロン等に出たいのだが残念。 中学の50m走では、6秒4で2位(1位は6秒3) 高校の校内陸上競技大会では、200m走2位。 走り幅跳び、6m4cmで2位。(1位は6m6cm) 小学校教員資格認定試験(29歳)では50m走、6秒9で2位 (1位は6秒8、2707人中、前日は雨で地面はぬかるんでいた) 残念ながら1位の種目がないのだ。 〇 野球部の思い出・・・・5年生の時はセンター。 当時は先輩のセンターも同姓の阿部さん だからだろうぐらいの認識しかなかった。 顧問の西田先生は、しばしば選手の ベースランニングのタイムを測っていた。 多分私が一番速かったからだと思う。 練習では毎日ノックを受けた。 左右に散らばるセンターフライは直ぐに慣れたが、 正面のフライが難しかった。 まずボールを見ながら前進するが、 ボールが近ずくと頭を越してしまうのである。 よく、バンザイをしてしまった。 つまりボールの勢いの度合いをなかなか読めなかった。 しかし先生のノックを毎日受けると、 バットの音を聞いた瞬間に、 ボールの落下点が、前か後か、後ろならどの程度なのか、 ボールを見ないで、後ろ向きで走っていても大体わかるようになった。 これは1年間毎日練習をしたものでないとわからない。 ピッチャーがモーションを構えると、すぐに構える姿勢が身についた。 なにしろ、0.1秒の差でボールをノーバウンドで 捕球できるところが、できなくなるからだ。 6年生の時はピッチャー。毎日150球投げた。 副顧問の先生が毎日ノートに記録してくれた。 私のフォームは、サイドスローに近い、スリークォーターであった。 つまり直球というのがないのである。 球の握りは、直球とカーブの2種類 球種はたったの3種類。 直球の握りで真っ直ぐ投げると、シュートになる。 スピードを出すと曲がりは少しだが、 ゆっくり投げると、曲がりも大きくなるのだ。 カーブの握りで真っ直ぐ投げると、少し曲がるカーブになる。 カーブの握りで少しひねると、大きく回るカーブになる。 試合の時は、まずシュートでストライク。 次に少し曲がるカーブで2ストライク。 3球目は高めのボール玉を見せる。 また内側か外側にそれるボール玉を見せる。 そして、最後は大きく回るカーブできめる。 大きく回るカーブは2ストライク取るまでは絶対に相手に見せない。 これだけだったが、 相手は小学生なので、打たれたという記憶はなかった。 土曜日の午後は練習試合。 ライン引きから始まるが一番の楽しみであった。 なぜなら練習の厳しさに対して、 試合はほとんど疲れないし、楽しかった。 私が崩れた時が一度ある。 城東小学校との試合で、 インコースのシュートがデッドボールになった。 気の小さい私は、そのあと腕が縮んでストライクが全く入らなくなった。 一番情けなかったのは、 3塁にランナーがいる時に、あわてたために 私の牽制球が暴投になった。 監督からは3塁への牽制球は投げるなと注意された。 だから3塁ランナーに対しては、 その試合では、モーションだけしかできなかった。 情けなかった。 レフトを守っているときに、左中間の大きなライナーが来た。 抜ければ当然ホームランになる玉をうまく捕った。 ベンチに帰ると監督に呼ばれた。 ファインプレーをしたと思っていたので、 褒めてもらえると思ってウキウキしながら行くと 「捕球後、なぜ直ぐにセカンドにボールを戻さなかったのか」と注意された。 私のバッター順は4番であった。 監督が一度、私に話してくれた。 「みんなはアウトコースの玉を強引に左に引っ張るが、 阿部だけは素直に右中間に持っていく。」 確かに相手ピッチャーは外へ逃げる球が多いので、 私もそのまま、素直に右中間へ持って行った。 だから、特に右中間の2塁打が多かった。 野球のルールについては監督も特に教えてくれなかったし、 仲間も一緒に勉強することはなかった。 例えば、ファールボールをレフトが捕った時に、 相手チームの3塁ランナーがタッチアップした。 「ファールボールじゃないか」とみんなで抗議して、 ルールの無知をさらけ出したこともあった。 中学の時は、バスケットボールをしたが、 雨の日にみんなでバスケのルールブックを見て作戦を立てたりしたが、 小学生の時は、野球のルールをそんなに勉強しなかった。深く反省。 本番の試合会場に来た時は丁度、 別宮小の左ピッチャーが1塁走者を上手い牽制球でアウトにした時であった。 完璧にアウトで、 私にはあんな上手な牽制球は出来ないと思っていたら、ボークであった。 この時私には、なぜボークなのかわからなかったので、 ものすごく不安を感じ、ピッチャーとして投げられるのかと心配であった。 後に聞いたがこの別宮小の左ピッチャーが優勝投手である。 こんなに牽制の上手い投手がいるのだなと思ったのも事実である。 第1試合の相手は常盤小。 こちら日吉小の先発はHa君(後に大阪大学教授)であった。 私はファースト。 回は中盤、得点は1対1の同点、1アウト、相手ランナーは2塁、3塁であった。 ここで、私がリリーフした。 私が、セットアップをすると、2塁ランナーが動き出した。 3塁ランナーを見るとベースに付いている。 もう一度2塁ランナーを見るとリードがかなり大きくなった。 そこで、セカンドにボールを投げてアウトにしたのはいいが、 その間に3塁ランナーがホームに帰ってしまった。 その後の回で、1アウト3塁に私、という場面があった。 どのようにして3塁まで進んだのか記憶にないが、 多分2塁打を打った後、3塁へ盗塁したものと思う。 とにかく足には自信がある。 今思うと、市内の野球部員の中で私が2番に早かった。 一番は城東小の野口君(何しろ中3ぐらいの体格) バンドでもいいから次のバッターが玉を転がしてくれさえすれば ホームに滑り込む絶対的な自信があった。 だが残念ながら三振であった。 この時の相手ピッチャーは、阿部澄夫。 (彼は今治西高時代同級であったが、 軟式テニス・ダブルスで全国でベスト8に入っている) 結局2対1で初戦敗退。 思うに、ピッチャーが、セカンドに投げた後、 セカンドは3塁ランナーの動きを見て、その動き次第では、 すぐにホームに投げる練習をしていなかった。 「2塁ランナーのリードを大きくとればピッチャーが投げるだろう、 その間に3塁ランナーを帰そう」という相手監督の作戦に まんまと私が引っかかってしまった。 本当に悔しかった。 この常盤小は、決勝戦の最終回、2アウト2塁、3塁で、 センターオーバーのかなり大きなフライを上げた。 誰が見てもサヨナラ勝ちだと思われた。 ところが、相手(優勝校)のセンターが 後ろ向きでキャッチしたのだ(ただし聞いた話)。 結局、常盤小は準優勝。 阿部澄夫の話によると、4対5ぐらいで負けた。 優勝した相手校は思えていないが、 あの左腕の別宮小ではないかと言う。 わが日吉小は練習試合では、ほとんどの小学校に勝っていたのに、 本番では初戦で負けて西田先生には申し訳ない気持ちでいっぱいであった。 練習が終わった後は、 みんなの母親たちが、私たち選手の為に毎日うどんを作ってくれた。 腹が減っていたので、本当に美味しかった。 ありがとうございました。 それにしても野球をしているときの写真が一枚も無いのが淋しい。 しかし、最初に新しいユニフォームを着た時の感激は 今だに忘れられない。 |
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今治市小学校野球チーム (1)日吉小学校 初戦で日吉小:常盤小=1:2で破れる。 1.阿部一生(小6の時、200m走は今治市で2位)、 ピッチャー、ファースト (足には自信があり、塁に出たら盗塁をよくした) 2.桧垣公昭(キンサン)、キャッチャー 3.原島俊(大阪大学教授)、ピッチャー、サード 4.船木、セカンド (親がPL教団、中学は大阪のPLへ。 高校はもしかしたらPL高校で野球をやっていたかも知れない。 クラスの人気者でよく「北帰行」を歌った PL教団の教え「人生は芸術である」 教団の目標「人類の永遠の平和と福祉のために貢献すること」) 5.渡辺(ボカニー)、ショート 6.高田(山本)、レフト (2)常盤小学校 決勝戦では常盤小:別宮小=4:5で破れる 常盤小:美須賀小=8:6で勝。 常盤小:城東小=2:1で勝。 1.阿部澄夫 (高校軟式テニス・ダブルスで全国ベスト8)、ピッチャー 2.佐伯明、キャッチャー 3.桧垣、サード 4.管、ショート 5.岩ア、ライト 6.笠原、センター 7.高橋(アックン)、レフト 8.篠原、レフト (3)別宮小学校 決勝戦で別宮小:常盤小=5:4で勝ち優勝 1.出島(左腕)、ピッチャー 本番の試合会場に来た時は丁度、別宮小の左ピッチャーが 1塁走者を上手い牽制球でアウトにした時であった。 完璧にアウトで、私にはあんな上手な牽制球は出来ない と思っていたら、ボークであった。 この時私には、なぜボークなのかわからなかったので、 ものすごく不安を感じ、 ピッチャーとして投げられるのかと心配であった。 (4)今治小学校 1.森茂樹(日吉中、今治西高でもピッチャー)、ピッチャー (5)城東小学校 1.野口(美須賀中学・生徒会長、小6の時、200m走は今治市で1位,大柄)、 ピッチャー (日吉小は城東小とは、よく練習試合をしたが、) 2.村上、キャッチャー |
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中学時代 (バスケットボール部) | ||
バスケット部の思い出と自慢 ・小学校の時、土曜日の午後、 塾(鬼塚)の帰りによくみんなと美須賀中の校庭で バスケットをしたが、どうも好きになれなかった。 ・私は小学校の時、野球部に入っていた。 5年生時はセンター,6年生時はピッチャーで4番バッターであった。 当然野球部から勧誘されたが、断った。 正直、中学の野球部は厳しそうで、ついていかれそうもないと感じた。 中学では勉強に力を入れようと思い、 入るなら文化部にしようと考えていた。 ・中学に入ると、友人のT1君(パン屋)がバスケット部に入りたいので、 付いて来てくれないかと頼まれた。 ・私は、入る気は全くなかったので側で待っていた。 するとキャプテンが私のほうを勧誘してきた。 キャプテンは生徒会長でもあり、 やさしかったので、私もしぶしぶ入部してしまった。 私はバスケットボールに関して自慢できることが3つあります。 1つ目は、今治市のバスケットボール大会で、 従来は先輩たちが常に初戦で敗退していたのに、 私たちの学年で初めて優勝したことです。 2つ目は、顧問の英語の先生がバスケットボールの経験がなく、 一度も練習を見てくれなかったことです。 つまり、練習方法は私たち仲間で考えたものです。 3つ目は、メンバーの中から2人が東京大学に入学したことです。 ・当時、日吉中のバスケは弱いので有名で、1回戦ボーイと呼ばれていた。 ・私も先輩の試合で勝った試合を見た記憶がない。 ・また顧問の先生も名前だけで、練習を見に来てくれた記憶がない。 ・しかし練習は厳しく、最初1年の時20人近くいたのに、 3年生まで残ったのは6人であった。 ・私も1年の夏休み中に昆虫採集や岩石採集で3日休み、 校庭30週走らされた時は、もうやめようかと思った。 ・練習場所は校庭のみであった。 ・体育館は、強い卓球・柔道・剣道等が使い、 1回戦ボーイのバスケは全く相手にされなかった。 ・困ったのはボール。練習ではグランドなので、黄色いよく弾むゴムボールを使い、 試合では体育館なので、重くて大きい皮ボールなのである。 ミッキーによると、顧問の先生が 「君たちは実際の試合は体育館の中でするので、 ボールの感覚を体験しておかなくてはならないから」 と言って、先生の知っている島の中学校との練習試合に 連れて行ってくれたそうだ。 ・自分たちはどうしても勝ちたいと思った。 ・練習方法は、高校の先輩たちが時々来てくれたので、 高校のバスケの練習を基本にした。 そして、みんなで練習方法を研究した。 相手の動きをいかにして読み取るか、 自分たちの動きをどのようにして相手に騙すか。 ・普通は2-3のゾーンディフェンスであるが、高校のマンツーマンもよくした。 ・T2君はゴールから90度横サイトからの ロングシュートを徹底的に練習した(今でいう3点シュート)。 ・一番苦しかった試合は、 やはり今治市大会での決勝戦である。相手は北郷中。 前半向こうは中学では使わないマンツーマンで攻めてきた。 相手の監督は我々に意表を付かせようと思ったのだと思う。 こちらは練習を積んでいたので、軽くダブルスコアで勝った。 問題は後半であった。 普通の2-3のゾーンディフェンスに変えてきたのだ。 その上相手のメンバーチェンジは5人ごっそり何回も入れ替える。 こちらは、スタミナも無くなりどんどん追いつかれていった。 私も3年間で始めて5ファールの退場を食らった。 最後は辛うじて1ゴール差位で優勝したそうだ。 とてもじゃないが最後は私も試合を見れなかったのだ。 ・松山で行った県大会は、1回戦は不戦勝。 2回戦は、新居浜の中萩中であった。 ここには負ける気はしなかった。 なぜなら練習試合で難なく勝っていたからだ。 バスケの顧問の先生は、 私達がどこか強いチームとの練習試合を希望したら、 この新居浜最強のチームを探してくれたのだ。 だいたいいろいろな招待試合の情報も他校の生徒から入るので、 よくみんなで先生の家へ押しかけて 試合の参加を申し込んでもらったものだ。 3回戦は、越智郡の大西中であった。 さすがここは、毎年の優勝候補に上るだけあって強かった。 (備考:昭22、北郷中と波方中が合併して北郷中に。 昭38、大井中と小西中が合併して大西中に) ・私たちの自慢は、1回戦ボーイとからかわれていたチームが、 県大会の、3回戦まで勝ち上がっただけではなく、勉強でもすごかった。 1学年550人余中4番以内が3人いたし、この中から東大に2人合格した。 (T2君は現役、Y君は2浪、(1浪時は東大入試中止)) その後、女子のバスケット部も誕生し、 体育館でも練習が出来るようになったようである。 何とうらやましい話である。 この年の日吉中は,毎年県大会に出場していた野球部が 出られなかったが, コーラス部が第31回NHK全国合唱コンクール全国第2位。 東京での表彰式に参加した。 1年の青山善行君がオリンピック協賛全国絵画コンクール入選。 19型テレビが学校に届き,みんなでオリンピックを見た。 愛媛県交通安全協会より,県代表として表彰された(9/19)。 当時生徒会長だった私は,新潟地震(6/16.M7.5)を見て, 全校生徒(1650人余,県下で5番目のマンモス校)に 義援金や援助物資を呼びかけ NHKへ持って行ったのが最初の活動。 (追伸) ・T2(竹田)君(今西高→東大):天気が曇ると必ず傘を持ち、 その上長靴を履いて登校して来た。 (そういえば、スティーブ・ジョブズはいつも裸足で歩いていた。) 全校生徒でたった一人平然として歩く姿は、遠くから見ると異様であった。 彼とは、よくアルミの鉛筆のキャップの中に マッチの軸の頭を入れてロケットを作って遊んだ。 私も自分の家に実験室を作り、 固体燃料や液体燃料を詰め込んでロケットを作った。 T2君とは高校の時、よく図書館で勉強した。 当時、数学は「解法のテクニック」が学校推薦であった。 私は「大学への数学」を使用した(といってもあまりしなかったが)。 ところが彼は、参考書は一切使用しなかった。 教科書の問題のみを、毎日何度も何度も真っ黒になるまで解いていた。 一度解くとチェックマークを入れるのだけど、 問題の周りは何十回も解くので、チェックマークだらけで、真っ黒。 はっきり言って汚かった。 それだから、教科書はほとんど分解寸前であった。 というか、綴じ糸がはみ出ていて、半分バラケていた。 教科書の例題と問題を完璧に理解していたのでしょう。 これだけで実力テストの難問を解いて見せるのである。 その上、T2君は小学・中学時代も高校時代も 塾には一切行っていないのである。 (最も高校生対象の塾はこの今治には無かったと思う。 少なくとも私の周りにはいなかった) だから、すごいと思った。 私のような凡人には彼の頭の中は到底理解できないと思った。 T2君はTOTOに就職したが、今度会ったときはぜひ、 「温水洗浄便座の開発」に携わったかどうか聞いてみたい。 インドでは、半数近い5.6億人以上がトイレのない暮らしをしているようだ。 つまり野外排泄で、都市でも線路脇の草陰でする。 このとき、女性や子供が乱暴される事件が 後を絶たないそうだ。(読売2016/12/28)。(備考) ・Y(矢野)君(愛光高→東大):夏、バスケの練習の後よく家に行った。 喉が渇いているのでその家の梅酒が冷たくて最高においしかった。 ある日2杯目も作ってくれると言うので、 コップ一杯の梅酒を一気に飲み干した。 異様な味がしたので聞いてみると、なんと石鹸水だと言う。 私は何時か死ぬまでに仕返しをしないと、と考えている。 彼とは、数学のライバルであった。 塾(鬼塚)のテストでは負けたが、学校のテストでは勝った。 私は中3の中間・期末・実力テスト全てに満点をとったが、 彼は一度だけ実力テスト(2回目)で取れなかった。(備考) ・東大と聞くといつも和歌山のW君を思い出す。 現役の時、東京の学生会館に泊まった。 和歌山から来た6人ほどの受験生と一緒だった。 今年はあきらめたが、 来年は千葉大(医)を受験するという子とはよく気が合った。 一人だけ受験勉強をするわけでもなく、 ボーとして、ポツンと座っている子がいた。 外で食事をするときも連中と会話することもなかった。 私はてっきり知的障害児だと思った。 あるとき彼の父親から電報が届いた。 「勝って兜の緒を締めよ」どういうことなのか聞くと、 東大の1次試験に合格したとの事だった。 私の周りの東大生は、やはり普通の人とはちょっと変わっていた。 (備考)第5回模擬試験(中3)の結果。 日吉中、3年の生徒数は約550人。下記は校内順位。 当時、日吉中から、今治西高へは、約150人が合格していた。 1番は、Y(矢野)君。その後、愛光高から東大(2浪)へ。 ただし、1浪時は大学紛争の為に、東大入試は中止。 だから、1浪時は大学受験をしなかったと、聞いている。 第4回模試まで2番だったが、最後に1番。中央委員会委員長。 2番は、T2(竹田)君。今治西高から東大現役合格。 その後、TOTOに就職。生徒会副委員長。 3番は、弓立さん。松山東高から愛媛大(法文学部)。 超色白の美人。頭の良さをツンと出すところが全くなった。 静かで、純日本的な女性。 同じクラスだったが、結局一度も勉強では抜けなかった。 親は医者。今度会ったら、医学部をなぜ受けなかったのか聞きたい。 当時は医学部は四国には徳島大学一校しかなかった。 4番は、私。生徒会長。 第4回模試までずっと5番だったが、最後に山岡君を抜いて4番になった。 たった一人抜くのに1年かかった。 5番は、山岡君。その後、愛光高を出て、医者になったと聞いた。 生徒会書記。 山岡君と 1番のY(矢野)君と私は、中学の3年間同じ鬼塚塾でのライバルであった。 山岡君は私より小柄なのに、何時も成績は私より上であった。 悔しい思いを3年間したが、最後にやっと勝ててスッキリした思いがある。 しかし、私の頑張りもどうやらここまでのようである。 (愛媛県模試では県順位は154番ほど) 高校では、机の前に座って勉強するより、 海や山をスクーターで走り回る方が楽しかった。 勉強に対して熱意はあったが、根気とセンスがなかった。 山岡君が医者になったと聞いた時は、 さすが、やったねと私の負けを認めざるをえなかった。 |
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浪人時代(代々木ゼミナール) | ||
私の一番良かった代々木ゼミナール全国模試成績表 (1)数学,89点, 4番(4699人中),偏差値 89,平均点26点(100点満点),0点は101人, 今治西高卒,昭和43/5/17,(1番は94点偏差値92) (2)数学,85点,25番(4271人中),偏差値 81,平均点27点(100点満点),0点は510人, 今治西高卒,昭和43/6/22,(1番は100点偏差値88) <2015年度の準ミス日本の秋山果穂さん (東京大学医学部)は東大模試で偏差値93.7。スゴイ!> 私の自慢の満点5点セット。 @県立高入試の数学:満点。 A国立T期校(地方)数学:満点。 B国立U期校(地方)物理:満点 (物理は4問。最後のコンデンサの問題は難問であった。 が、駿台模試と同じだった為に解けた)。 C中3の数学は全て満点(中間・期末・実力)。 D中2の2学期の通信簿はオール5。 浪人時代の下宿は代々木ゼミナールで紹介してもらった。 3畳一間、賄い付きで12、000円/月であった。予備校生は10人。 寮母さんの食事は量も多くて満足した。 欠点は2階部屋の仕切りがベニヤ板1枚。 机の引き出しを開ける音まで聞こえる。音楽は当然全てイヤホーン。 私だけ1階なので助かった 。寮母さんに「八千草薫に似ていますね」と言うと、 中学生のようにとても喜んでくれた。 下高井戸(世田谷区)の駅から畑の中を通って帰る時が 好きな光景であった。 基礎英語を聞きながらの散歩と銭湯に行くときが 一番心休まる時間であった。 土曜日の午後はみんなでよくボーリングをした。 200点UPも何回となく達成。 ハイゲームは208点。県立W医大の教授の息子が一番うまかった。 浪人時代は灰色ではないかと言う人がいるが、 私はこんなに自由で、目的の有る1年間はバラ色と言ってもいい (私はちょっと遊びすぎたかな。反省・・・)。 ただし親は大変なので、親にだけは感謝しておこう。 5人が医学部志望。 倍率が20倍より下はなかった。 (但し東大理Vは3.5倍。 慶大医は37.5倍(今治西から3人合格,但し1人は京大医,1人は東工大へ)) 結果は全員不合格。 が、しかしS君(湘南高校)の父親が すぐに母校の私立日本医科大に電話をかけ、裏口入学を果たした。 自分の息子に病院を継がせるには、 私立医大卒の方が金はかかるが、可能性が高いと思った。 私なんか、面接で親の職業を言ったらそれで終わった。10秒もかからなかった。 後の3人はみんな親が医者である。 北海道から来たJ君はあまいマスクで映画俳優になれそうないい男であった。 和歌山県立医大の教授の息子もダメであった。 みんなその後、後を継げたのかどうか気になる。 私は指先には自信があるつもりである。 小学生から読んでいた「子どもの科学」の工作を毎月ずっと作り続けていた。 模型飛行機も友人のを代わりに作ってあげていた。 ある時友人H君の処女飛行を橋の上から飛ばした。 普通は左右の主翼が数ミリ異なるので旋回するが、 私のは設計図どうりなので数百メートル直進してしまった。 遥かかなたの豚小屋に飛び込んだ、急いで二人で追いかけたが、 プロペラしか残っていなかった。 札幌医大の和田教授による、 日本で最初の心臓移植の記事を目にした時、これだと思った。 現役、J医大(不合格)。 一浪、受験前の1月に大学紛争の為に東大・教育大等の入試中止の発表。 その上,翌年はかなりの大学の入試が中止になるかもというデマが流れた。 3万人を超える東大受験生が涙を飲んだ。 東大受験の4人組(新潟高卒)は急きょ4人とも新潟大(医)に変更した。 私は国立一期は新潟大(医)志望であった。 当時四国には徳島大(医)一校しかなかった。 その上世界史指定であったので、地理の私は国立一期はT大(医)に変更。 数学で満点取るも不合格。 立教大(理)(合格)ここは友人の付き合いで受験、私だけが合格 (ただし、K君は千葉大(工)から北海道大(工)に変更して合格。 普通の国立大学理系は理科2科目、社会1科目選択である。 しかし北海道大(工)だけは理科2科目、社会2科目選択なのである。 彼は、社会は世界史だけであったが、1月から地理も勉強を始めた。 つまりたった2ヶ月の勉強で地理をものにしたことになる。 というか、私は地理には絶対の自信がある。何しろ高校時代は、 日本史や世界史の授業中も地図帳を広げて地理の勉強をしていたからだ。 予備校の帰りにはいつも彼にクイズ形式で地理の問題を出していたのが、 彼には大きな力になったと思っている)。 T君は新潟大(工),早大(理工)に合格)。 K大(医,不合格),N医大(不合格),T医大(不合格), N大(医,不合格),J大(医,不合格),I医大(不合格)。 立教大には原子力研究所があるので、原子力関係か 遺伝子関係で生化学を勉強してもいいかなと思った。 国立二期校は願書を3校出していた。 予定では地方の国立S大(工)。親には悪いが、立教大(理)より行く気がしない。 国立H大(医)に最後の挑戦をした。 だが物理満点取るも不合格。 (物理は4問。最後のコンデンサの問題は難問であったが、 駿台模試とほぼ同じだった為に解けた)。 全て受験倍率は20倍を超えていた。最大は37.5倍(慶応大(医))、お陰で1勝9敗。 思い通りの 人生じゃないとしても それも幸せと 選ぶことは出来る まぁいっかと割り切れなければ とっておきの笑い話にしよう(高橋優) 敗因は「2浪すれば何とかなるだろうという甘い考え」 だから一浪時はダラダラと過ごしてしまった。 やはり「2浪は絶対しない。その時は就職か専門学校だ」 ぐらいの覚悟がないと私は受験勉強はやらない。 立教大(理化)でさえ定員30名のところに全国から800名以上が受験。 医学部なんかさらに凄く、定員75〜100名のところに2800名以上が受験した。 今後は安くて良い介護施設をめぐっての競争がはじまる。 これも団塊の世代の宿命なのでしょう。 |
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社会人1年生、明治ゴム化成(株) | ||
三菱系列の会社です。 キリンビールの黄色いケースや,三菱の自動車やエスカレータ, 発電所のゴム(自動車のタイヤ部門は横浜ゴムへ分離)や プラスチックの部品を製造開発しています。 当時、この会社の従業員(当時社員は2000人余だと思われる)の 給料を計算処理するのに 1億円以上もする大型のコンピュータを使用していました。 現在なら10万円程度のパソコンで処理できると思います。 上司(30歳代)の家に泊まったことがあります。 私も、10年も働けばこんなクーラーを24時間きかせた 新築の家が購入できるのかなと思いました。 何しろ、寮費は1000円/月、 仕事が終わった後の大浴場はあるし、社員食堂も当然あります。 夕方からの文科系やバスケットなど スポーツ系のサークルがいっぱいありました。 その上、工場の近くには歓楽街もありません。 つまりもらった給料を使う場所がないのです。 これではすぐに金が貯まるなと思いました。 最初の3ヶ月は現場実習。 1週間おきにさまざまな現場に行き、 週の終わりには改良点等についてのレポートを書きます。 エレベータの手すりのベルトを作る作業場では 疲労の為か、鼻血が止まりませんでした。 私の父親ぐらいの作業員にそこで横になっていなさいといわれ、 半日横になった時もありました。 水力発電所で使う大きなロールにゴムを巻く作業場が一番緊張しました。 人事部長の右腕はロールに巻き込まれ右手首から下がないからです。 大卒入社の5人はいつも一緒でした。 午前中に一度15分程度の休憩時間があります。 集まってはいろいろと職場の話題について話しあっていましたが、 そのうちに集まっては芝生の上に寝るだけになりました。 みんな完全にダウンです。 他の従業員さんたちは、キャッチボールをしたりして みんな、それぞれの形で楽しんでいます。 若い女の子などはきゃあきゃあ騒いでいるのに、 われわれ大卒5人組の周りだけ死んだような世界でした。 立つ事さえ出来ませんでした。 われわれ5人は4年間大学でいかに体を使わなかった生活をしてきたことが、 一目でわかる光景でした。 7月からは自分の部署の予定でしたが、 夏場でもありキリンビールのケース生産の納期が間に合わないとの事で、 急きょこの部署に応援に行きました。 1台10トントラックぐらいの大きさの射出成型機がずらっと並んだ工場です。 3交代制で24時間機械が止まることはありません。 次々と射出成型機から出てきた 黄色いケースの10箇所ほどあるバリをカッターナイフで切り取り、 整理する仕事です。 早くしないとケースの温度が冷え、なかなかバリが取れなくなります。 一度大きな失敗をしました。 それは何か忘れましたが(トイレかな?)、ちょっと目を外し戻ってみると、 黄色いケースが山のように重なっているのです。 射出成型機から出た直後は ケースの温度も高く、ふにゃふにゃの状態なのです。 ですから重なってしまうとケースはひん曲がってしまうので、 もう使い物になりません(お釈迦という)。 次々と射出成型機からケースが出てきますが、 自分の都合でちょっと疲れたから休むということは絶対出来ないのです。 ちょうど、チャップリンの「モダンタイムズ」の映画そのままなのです。 私は本当に気がおかしくなりそうでした。 このケースの4面の自動印刷機が故障していました。 フランスの機械なので、フランスから修理人を待っているとの事でした。 近所のおばちゃんと10代の女子のペアは ハイハイというリズムに乗って軽やかに印刷していました。 われわれ大卒組も何回か挑戦してみましたが、 おばちゃんペアに圧倒的に負けました。 大卒組は何をしても、現場の従業員には遠く及びませんでした。 8月になってやっと自分の部署に配属されました。 私は合成樹脂技術部門でした。 とり合えずケースの品質管理のような仕事でした。 部屋は年中20度Cで一定の部屋です。 落下試験や引っ張り試験等をして、 ケースの耐用年数を割り出す基礎データを作成するのです。 製造されたさまざまの年代別に試験をしていきます。 はじめて天国のような仕事場だと思いました。 なにしろ自分のペースで仕事が出来ます。 部署は3ヶ月で12箇所しか回れませんでしたが、 作業工程とか作業環境の改善の余地のある事もわかりました。 自動車に使うゴム管でも、 場所によって成分の種類や量が異なります、 これを混ぜる精錬の仕事が一番不人気でした。 これらを改善するのが大卒の仕事でしょう。 ある問題を見つけ、それらをひとつひとつ解決していく。 私は、最近になって実は、 私の仕事はここが一番向いていたのではないかと思うようになりました。 |
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